矢熊進之助氏「山村佑理とモノとの交感」

大道芸人・パフォーマー、ジャグリング講師として活躍する傍ら

ジャグリングに纏わる様々なイベントの企画プロデュースを行なうプロジャグラー

ハードパンチャーしんのすけこと矢熊進之助氏より

山村佑理のジャグリングについて、寄稿をいただきました。


「山村佑理とモノとの交感」

ジャグリングは、あるいは、ジャグラーはお高くとまっている…なんてことは、もちろんない。しかし、多くのジャグリングが「技術」に重きを置いたものであり、そこに誇りを持っていることも確かである。

そもそもジャグリングとは何か。

お手玉。
曲芸。
一般には、そんなイメージか。

ジャグリングに深く触れているひとならば、「リスク」という言葉を挙げるかもしれない。挙げないかもしれない。(ジャグリングとは何か、という問いは、ジャグラーにとって大きな問いのひとつであるが、ここでは深く触れない。)

そう、ごくごく乱暴に言ってしまえばジャグリングとは「ものを使って難しい(そうにみえる)ことをする」くらいのことになるであろう。

しかし、山村佑理のジャグリングから感じるのは、やや異なる。
ジャグリングが訴える「難しさ」は遥か彼方の背景に後退する。

山村佑理のジャグリングには何があるのか。
モノとの交感である。(敢えて断言。)

山村佑理のジャグリングをみていると、まるで詩を読んでるかのよう気持ちになる。
そこには、モノと山村佑理が共有する宇宙がある。あるいは、山村佑理とモノとが共有する宇宙。
そこに、互いに対等に、居る。

ジャグリングは、モノとの対話である。
ジャグリングとは、モノとの恋物語である。
ジャグリングとは、モノとの交歓である。

そんな風にジャグリングを捉え直したくなる。

戯れ、見つめ合い、時に離れ、戦い、そして、再び共に戯れる。
山村佑理のジャグリングをみて、ぼくはボールに嫉妬し、山村佑理に嫉妬する。

そこには、詩情があり、私情を沸き起こさせられるシーンがあり、至上の瞬間芸術がある。

この夏に、フランス留学から一時帰国した山村佑理の演技を、都内のライブハウスにて観た。そこには、以前の内省的な空気を感じさせつつ、感情をより露にした、より激しい精神の発露があった。

山村佑理は、より深くボールとの対話をしていた。さらに言うと、観客をボールとの対話に誘っていたようにも思える。さぁ、こちらに来ないか?Why not?
極上の時間だった。

今回の公演にて、山村佑理は、どれだけの深みを魅せてくれるのか。
実にたのしみである。